世渡りと生きがい NO12〜NO15
    

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******週刊  世渡りと生きがい〔素読の行)VOL12*******
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(1)  はじめに
(2) 古典の読み下し
(3) 古典簡訳
(4) 漢文
(5) 道とは何か   
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(1) はじめに
自分と他人 :一流大学を優秀な成績で卒業したものが27歳ぐらいになる
と無気力になり、全く公私ともに今までの態度が 180度変化して何も役に
立たなくなったと聞くことがある。
 陰陽思考法から考えると 当然と思えるのである、学生時代、自らが優秀と
と思い、また周りから頭が良いと言われて来た者は 陽、目立っていたのである
裏では、すなわち潜在意識は何を考えていたかと云えば 皆他人は頭が悪いな
みんなは頭が悪いと思っていたのである。
表面、顕在意識は良かった と 思われていたが 相対的なことで周囲と 比べて
良かったのであるが潜在意識の考えは周囲は頭が悪いと思い続けてきたのである。
潜在意識は主語が無い世界であり、 頭が悪いは主語[周囲]は消されてすべて

「頭が悪い」「頭が悪い」−−−ーーー自分の頭に刻印されているのである、
これはビジネスの世界でも言えることである、俺の部下は 全く役に立たない
駄目だ、ダメダ、ヤクタタズ、駄目だと云っている課長、部長、社長がいるが
この人は自分が駄目になって行く 能力無しになって行く 警鐘を自ら鳴らして
いるのである。 その言葉を聞いていると、聞いている者にも伝染するので遠ざ
かって居た方が 賢明である。    自分=他人  である。

 (2)古典読み下し(老子一章)

     道(どう)の道(い)う可(べ)きは常の道(みち)に非(あら)ず

  名(みょう)の名(な)ずく可(べ)きは、常の名(な)に 非ず

  名(みょう)無きはは天地の始なり

  名(みょう)有るは万物のは母なり

  故(まこと)に 常に 欲無きものは 以(もっ)て

  其の 妙(みょう)を観(み)

  常に欲有る ものは以(もっ)て

  其の徼(きょう) を見る。

{注記}
「道ー(どう) (いう) (みち) と3通りの読み方をしているがすべてを
 道(みち)と読んでも構わない、3つを区別したのである。」

次の名も〔みょう)と(な)と区別したが名(な)と統一しても良い。

   (3)漢文

   道可道。 非常道。
  
   名可名。非常名。
   
   無名。 天地之始。
   
   有名。 万物之母。
   
   故常無欲。 以観其妙。
   
   常有欲。 以観其徼。

(4)漢文の 簡訳

   道(どう)とは普通一般に明らかに解るような道ではない

    名(みょう)ー徳 は 一般に明らかに見えるような徳ではない。

    徳の 無きは 天地の始なり、 徳が 有るようになって 万物が 生まれた。

   常に 欲の 無い人は妙( 隠れた本質)を見抜く事ができる。

   欲の有る人は、 徼(きょう)ー表面の結果しか見ることができない。
    
(5)道 (どう)とは何か

   道(どう)、妙(みょう)、徳(とく)に英語訳にするには 適当な
  
   単語が無いように思う。

    易経 で言うところの太極にあたり 表面化されていないのである。

   文字にすればすべて間違いとなり 当てはまる言葉が見つからないのである。

   不立文字にあたる。表面化すると陰と陽に 分かれ 、陰と言えば違う。

   陽と言えば違う、また全然違うのでなく、ずばりと適う言葉、表像が幅広く

   言い当てられないのである。

   茶道、弓道、書道、生花道、柔道、合気道など 道がついている究道はすべて

   精神的修養行が付随している、しかし其の道 が言葉では解かれえないために

   外国に伝わって行くに従い、形だけが伝わりスポーツ化しているのである。

   道とは精神的なもので座禅のように体得する精神的技術であろう。
 
 はじめにー記した「自分と他人」を究めることを人間道であり、一般的に人間学

 である。自分=陽であり、他人=陰である。 陽(自分)を追究すると陰(他人)

 が生じて、他人を究めることになる。


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******週刊  世渡りと生きがい〔素読の行)VOL13********
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(1)はじめに
(2)漢文の読み下し
(3) 漢文の簡訳
(4)漢文
(5)名とは
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(1) はじめに
    東洋と西洋と役目の違いは大きく分けると 東洋は「見えない世界を追求する」
   事を得意とし、 西洋は「見える世界を発展させる」ことに特質が有るように思う
     言い換えれば「見えない世界」ー精神世界であり 「見える世界」とは物質世界
     である。
     西洋は物質の発展に大いに寄与し、現代の物質文明の隆盛に導いたその
     反面、精神がおろそかになり、現代世界の混迷の大きな問題点は物質の取り
  合い、分け合いの争いが絶えないのである。 これから東洋の精神追求の時代
  に入り現代の混迷を融和していくことが今求められている。東西文化の融合で
  ある。

 (2)古典読み下し(老子一章の続き)
     道(どう)の道(い)う可(べ)きは常の道(みち)に非(あら)ず
     名(みょう)の名(な)ずく可(べ)きは、常の名(な)に 非ず
     名(みょう)無きはは天地の始なり
     名(みょう)有るは万物のは母なり
     故(まこと)に 常に 欲無きものは 以(もっ)て
     其の 妙(みょう)を観(み)
     常に欲有る ものは以(もっ)て
     其の徼(きょう) を見ると
                    (ここまで前回の読み下し)

  此れの両者は同じきものより出でて

   名(な)を異(こと)にす。

  同じきもの之(これ)を玄(げん)と謂(いう)。

     玄の又玄。(げんのまたげん)

  衆妙(しゅうみょう)の門(もん)なり。

(3)漢文

     道可道。 非常道。
   名可名。非常名。
   無名。 天地之始。
   有名。 万物之母。
   故常無欲。 以観其妙。
   常有欲。 以観其徼。
                (ここまで前回の漢文)

  此両者。 同出而異名。

   同謂之玄。

  玄之又玄。
       
  衆妙之門。

(4)漢文の 簡訳
      道(どう)とは普通一般に明らかに見えるような道ではない
      名(みょう)とは 一般に明らかに見えるような名ではない。
      名の 無きは 天地の始なり、 名が 有るようになって 万物が 生まれた。

      名の無きとはー形のない、見えないもの すなわち精神世界、

     名の有りとはー形のあるもの、見えるものすなわち物質世界、

   天地の始めは見えない 精神世界から物が 考え出され、

  その物から万物、形のあるものが 多く生み出されてきた。

   常に 欲の 無い人は妙( 隠れた本質)を見抜く事ができる。

    欲ある人は、 徼(きょう)ー表面の結果しか見ることができない。

   無名(陰)、有名(陽)、この両者は同じところー易経でいう太極
  
  から生まれ出ている。 この同じところは 見えない世界の基ー玄という。

   この玄は生物、植物、人間など宇宙万物が生まれ出る不思議な門である。

(5)名とは

   前回は 名 を 徳と解釈しておいた、 今回はこの名を「形のある」 と解釈

  している。 この老子の解釈は時に応じて全く違う解釈をしても、それも良し

  とする、幅のひろい意味を持っている。
     
  皆さんも何回も素読して潜在意識から、また その奥の玄(宇宙意識)から

  違う解釈が閃き、この老子1章の独自の解釈を 作り出して欲しい。

  4回連続で老子を行って来ましたがまたの機会に行うことにします。
  
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******  世渡りと生きがい〔素読の行)VOL14**********
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      目   次
   (1)  はじめに
  (2) 古典の読み下し
  (3) 古典簡訳
  (4) 漢文
  (5) 論語読みの論語知らず   
   ----------------------------------------------------------------
(1)はじめに
   昔父親から食物を食べている時は、喋ってはいけないと、食事中に良く叱られた
 事 を覚えている。食べているときは噛むことに専念しなさいと言われた。
 ところがその2、3日後、父親が食べながら喋り出すのである。
   子供が注意すると、大人はいいんだとうまく逃げられたものである。

これと同じようなことが会社関係、集団の人間関係において多いようである。
  50歳前後の上司が、規律、規則、道徳を常に説いていて、非常に正義、正論を
 話す人が 部下を叱り教えている、 ところが いざ自分の行動を見ると礼儀知らず
 子供のごとく 相手の迷惑を顧みることができない人がいるのである。

(2)漢文読み下し

      子貢(しこう)問うて曰く、 一言(いちげん)にして以(もっ)て
   
      終身(しゅうしん)これを行うべき者 ありや。

      子(し)曰(いわ)く、 それ恕(じょ)か。
      
      己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所、 人に施(ほどこ)す勿(なか)れ
                                         (論語衛霊公)

      子(し)曰く、 躬(み)自ら厚くして、 薄く人を責むれば、

       則(すなわ)ち  怨(うら)みに遠ざかる。
                                          (論語衛霊公)

(3) 漢 文 簡 訳
       子貢が 質問した、 一言でそれを一生 行って行けば良いという事は
       ありましょうか、 孔子が 言われた。 それは 恕(じょ) であろう。
       自分が人からされたくないと思うことは、他人には行わないことだ。
                                             (論語)
       孔子が 言われた、自らを厚く、深く責め反省し、他人には薄く、ゆるく
       責める寛容さが あれば 人からのうらみは受けないようになる。
                                              (論語)
 (4)古 典 漢 文
   
   子貢問曰、有一言而可 以終身行之者乎。
      子曰、其恕乎。
      己所不欲。 勿施於人。

      子曰、躬自厚、而薄責於人。
      則遠怨矣

(5)論語読みの論語知らず
  論語の教えは2500年前に世に出て、昔日の変遷の荒波に耐え、 近代社会の倫理
   にも通じる、光り輝く言霊として、世情の人間学、道徳として 訴えかけている。
この書を読み、覚えて他人に教え、諭していけば、正義の人、善人の人と尊敬される
 人物となるが他人には注意できるが自分に当てはめてみることができず、自らは
  論語の言と反対の行動をとっている人が多いのである。
  論語を常に唱えて話しをしている人が、
   躬自ら薄く責め、 人には厚く責め平然としている人が多いのである。
   このような人を論語読みの論語知らずと言っている。

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1)はじめに
2)漢文読み下し文
3)漢文簡訳
4)漢文
5)中庸、現代的意義
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1)はじめに
 日本人は経済界、政界も世界から疎(うと)んじられている感がある。その根
  因は善人に成りきれず、悪人にも成りきれないからであろう。例えば論語、
  孟子の性善説の教えを実践できているかといえば、出来ていない。ではマキャ
  ベリー、韓非子、菅子の性悪説を行動できるかと問えば、ノーであり、どちら
  も極端を嫌う性質を日本人全体が持っている。そのため経済界ではアメリカ、
  フランス、ドイツなど西欧諸国の会社に吸収合併されている。 

2)漢文読み下し文

  中庸(ちゅうよう)は、偏(かたよ)らざるを中(ちゅう)と謂い、

   易(か)わらざるをこれ 庸(よう)と謂う 。

   中は天下の正道(せいどう)にして、庸は天下の定理なり。
 
3)漢文簡訳

   中庸とは、いずれにも偏らない過不及ないことを中といい、
   すべての時代に変わらないことを、庸という。
   中は天が教える道であり、庸は天が示す倫理である。

4)漢文

  中庸。不偏之謂中。
 
  不易之謂庸。

  中者天下之正道。

  庸者天下之定理。

000000000000000<<<>>>00000000000000
5)中庸、現代的意義
 山本七平氏の著書『常識の非常識』の中で、
「根拠なき前提がいつしか常識(陽)となって通用し、人々の思考がそれに
拘束されると社会の通念に従って常識的に考えかつ行動しているつもりが、
 結果において意外な非常識(陰)となってくる。」
この一文に、世の中の移り変わりは、陰陽、陰陽と循環していることを
うまく表現されていると思う。
 バブルの時、友人が「借金も財産の中」と言いつつ、多くの借金をし、
今は会社を窮地に追い込み、倒産一歩手前であえいでいる。
借金して土地を買い、株を買うことが常識であったのである。 
 その常識に従い行動した者、今大部分の人達が、苦しみを味わって
いるのである。
多くの儲け(陽)の裏には、多くの損(陰)が隠されているのである。 
中庸は別解釈で、あいまい、フアジー、いいかげん、真中、あまり良い印象
を与えないはっきりしない考えが先行して中庸の本質を掴めないように思う。
このはっきり結論の出ないことこそ東洋哲学の特長である。
漢文は感性、精神性を言語に置き換えたことにより、各人が違った解釈をす
るようになる。
どの解釈も一理あり一語句の解釈は大きな巾があり奥行きがある
又時代により状況により解釈が、全く真反対になることも出てくるのである。
中庸の二文字の解釈にも一冊の本になっているように拡い意味奥深い解釈が
含まれている。
陽極まりて陰となり、陰極まりて陽となる。すべてにおいて陰陽、陰陽と
循環しており昨日まで正しかったことが今日は間違いと判断されることは多
いのである。 今とバブル時との金銭感覚が逆であるように常に反対の考え
方に対して真剣な注目をする、そして何かそこから新しい一つの事実が発見
されれば、これを取り入れていく考え方が、仕事において政治、経済、科学
、すべての文化に共通している時代になっているように思う。
これからの時代は、自らの考え方に、幅のある、ゆとりのある他人の意見を
受け入れる 寛容な度量のある考え方が必要になってきました。
陽と考える者が、陰の考えを相待ち、良き意見は受け入れ熟考し行動していく。
世の中一人では生きてはいけない、会社の中、学校の中、チームの中、社会の
の中、全体の個人であり、個人の全体である、自分が自分がという自己主張が
すべてであれば、ストレスが溜まり、自己主張も通らない、相手、全体を考え
ることが重要になってくる。全体と個人との中庸点を模索することが日本人の
今後のテーマである。
現代はこの古典中庸の考え方に学ぶところが多いように思う。
 
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